題名:「何もない空間」への何かを知るために
報告者:ダレナン
はじめは、「何もない空間」でもって、ここに紙面上で何も記述しない(されていない)空間を設けることで、「何もない空間」から、何かが生まれるかもしれないことを期待した。しかしながら、「何もない空間」は、実際は、何かがあるとの区別により生まれるものであり、何もないというからには、本当に何もないことによって、何もないこととして証明される。すなわち、何かがあるということを知っていることは、「何もない空間」について論じることはできないことをも意味する。そのことに、ふと気づいた。そこで、あえて「何もない空間」とは、何があるのかを調べることで、「何もない空間」により近づけるかもしれないと考えた。そこで、本報告書では、「何もない空間」への何かを知るために、ここに何かを記載したい。
イギリスの演出家・演劇プロデューサーであり、演劇界の最も有名な人の一人にピーター・ブルック氏がいる。氏は、通常は劇場という空間において、最も著名であるが、報告書のNo.468でも示されたように、映画「マルキ・ド・サドの演出のもとにシャラントン精神病院患者たちによって演じられたジャン=ポール・マラーの迫害と暗殺」において、日本公開映画の中で最も長いタイトルを有していることでも知られている方でもある。その氏による著書に「何もない空間」2)がある。その書は、まさに、ここで何かを知るための一助となる可能性がある。それによれば、こと演劇に関して、「どこでもいい、何もない空間-それを指して、わたしは裸の舞台と呼ぼう。ひとりの人間がこのなにもない空間を歩いて横切る、もうひとりの人間がそれを見つめる-演劇行為が成り立つためには、これだけで足りるはずだ」2)と述べている。これは、演劇について述べた「何もない空間」がいかにして、演劇的に何かが生まれるかを示した言葉となるが、空間において、人ひとりが存在することで、空間に何かが生まれ、そこにふたりいることで、観られる側と観る側の存在性の違いが生まれることをも示している。すなわち、観られる存在性と観る存在性は、互いの得られる意識の問題でもあり、片方は意識していなくとも、もう片方は意識していることとなり、そこには存在性に関する意識的な引力が提示される。これが意識していない側にも知覚されることで、観られる側は観る側に転じ、観る側と観る側の両側ともにおける互いの引力として影響が及ぼされることとなる。その場合、その引力は、互いの何かを引き寄せ、磁気でいえば、N極とS極という存在性として確立する。したがって、「何もない空間」は、人間と人間だけでない何かがその空間に生じる。それは互いの意識的な磁力として作用しているのかもしれない。そして、それは、愛ともいえるのかもしれない(報告書のNo.88も参照)。しかしながら、S極とS極、あるいは、N極とN極であれば、斥力となりうる。そこで、再び、ピーター・ブルック氏の「何もない空間」から捉え直すと、「目に見えぬものを捉えようとするのはいい、だが、常識的なるものとの接触を失ってはならない。…中略… 絶対的なるものに接し続けるということが人間にとってはどんなにむずかしいか」2)となる。言い換えると、先に述べた意識的な引力、あるいは、磁力を作用させるためには、人間という文化形態における常識的なるもの、絶対的なるものを、空間的親密性と精神的親密性の融合関係でもって、言葉と動作と表現の形而上学として創造し、心理的人間的次元での足踏み状態から脱却させる2)、ことが重要となる。これは、演劇における重要な点としての指摘でもあるが、これすなわち、何もない空間への何かとなる。
アダムとイブ以降の世界は、「何もない空間」は、何かを知る空間へと存在性が変化した。
1) https://ja.wikipedia.org/wiki/マルキ・ド・サドの演出のもとにシャラントン精神病院患者たちによって演じられたジャン=ポール・マラーの迫害と暗殺 (閲覧2018.10.28)
2) 永井聡子: 劇場における象徴領域と演劇研究の理論と実践の方法論 -「芸術作品」をリードする劇場とは何か?. 静岡文化芸術大学研究紀要 17: 107-115, 2016.