題名:公と私の境界から
報告者:アダム&ナッシュ
一般的に公と私は境界があり、そこに明確な線引きがなされる。巷でよく言われる「公私混同するな」とは、その線引きが明確でなくなった状況下でのとある人物の行動パターンを叱咤することに他ならない。一方で、公は公的、私は私的となり、意味的には前者は世間一般を対象とするさま、後者は個々人にのみ関わるさまとなる1)。英語では前者はパブリック、後者はプライベートとなる1)。しかしながら、実際は日本における公私と英語圏におけるパブリック・プライベートは意味合いが異なることが多い。文献2)によれば、「公私の公」も、「公私の私」も、本来その主体は国民であり、国民全体の利益、または、権利を問題にするのが「公」、対して個人の利益や権利を問題にするのが「私」とされる。これが英語圏における真の「パグリック」と「プライベート」に相当する。ただし、日本では、「公」と考えている会社や学校は「法人」に相当し、組織の形であるも、これも一企業、あるいは一校の学校として考えるならば、これは公私の「私」に当たる2)。そのため、この解釈自体にも「公私混同」があり、「支配(管理)されている者が自分の都合で支配(管理)する者の指示に逆らう事」を「公私混同」とする誤用2)が日本では生じやすい。
「パグリック」と「プライベート」の違いについて、公園という事例から検討した文献3)によれば、「日本の「公」園は「パーク」ではない。管理する自治体など「官」の「私」物である。しかし欧米ではそうではない。「パブリック」とは「プライベート」が出会う場であり、「プライベート」のために「プライベート」が作ったものが「パブリック」である。「私のための公」であり、「社会契約」によって「私」が多数で人為的に作り出したものが「公」なのである。」とされ、その考え方の違いがよく理解できる。
一方、一個人において表向きに出るものが「公」となり、表向きに出ないのが「私」となる。芸能人であれば、ステージに立っているのが「公」であり、そうでないのが「私」となる。しかしながら、芸能情報を好む日本にあっては、「公」と「私」の興味が逆転することもしばしばである。すなわち、日本社会において「公私混同」が社会的にも当たり前であり、「公私混同するな」としても、如何せん社会全体に「公私混同」がまかり通っている不思議さもある。そのため、芸能人、あるいは、それに準ずるような人の「私」が流出すると、好気の「公」も生まれ、好奇の目が蔓延する。ただし、その好奇の目を活かして、「公」としつつも、「私」であるような印象があると、その生生しさに緊張感が増しやすい。例えば、その印象の一つとして写真を挙げると、ロシアの写真家であるMarat Safin氏の写真が
図 Marat Safin氏の写真4)
それに当たるかもしれない。図にMarat Safin氏の写真を示す。日本ではさしずめ天才アラーキー(荒木経惟氏)のような「公」と「私」の見事な逆転が、氏の写真にも感じてならない。このような表現ができるのは、やはり氏に内在する特殊な才能故に他ならないであろう。これは、できるようで、できない。
1) https://thesaurus.weblio.jp/antonym/content/%E5%85%AC%E7%9A%84 (閲覧2017.11.24)
2) http://www006.upp.so-net.ne.jp/takagish/opinion/iitai1999-0/iitai055.htm (閲覧2017.11.24)
3) http://www.relnet.co.jp/relnet/brief/r18-24.htm (閲覧2017.11.24)
4) https://i.pinimg.com/originals/07/df/bd/07dfbd44cc68f8c364bc09a6ebd121e9.jpg (閲覧2017.11.24)