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題名:写真における記録と芸術の狭間で
報告者:ナンカイン

 写真はカメラのファインダ(近年ならば、液晶であるが)を覗いて、心赴くままにシャッターをきる(撮影する)行為であり、そこではカメラの操作とカメラマンの心境が一体となることもある。普段からカメラや写真に対して造詣が深く、一枚一枚を大切に撮る人ならば、その行為には特別の意味があろう。しかしながら、近年では、スマートフォンにも高性能なカメラが搭載され、さらに撮った写真を気軽にSNS(ソーシャルネットワーク)を通してシェアできる時代となったために、かつてほどの深い含蓄はなくとも、気軽にシャッターをきる(撮影する)行為が当たり前となった。
 かつて写真の撮影にフイルムが必要だった時代は、36枚のフィルムに300円ほどかかり、かつ、現像からプリントまでカメラ屋に依頼するとなると、1200円はかかった。一本のフィルムを映像として完成させるには、1500円も必要とされた(フィルム生産が縮小し始める頃の時代)。そのため、シャッターをきる(撮影する)行為も、腕の良し悪しは別として、気軽に撮ることができる行為ではなかった。
 撮る側の何らかの感情のままに気軽にシャッターをきる(撮影する)行為自体は別段に悪いことではない。さらに撮影するための特別な技術がなくとも、オートの機械任せの技術でうまい写真を撮ることが、近年ではできるため、その行為にはことさら特別な意味を持たなくなりつつある。そういう意味でとらえれば、デジタルカメラが当たり前となった近代の写真の多くが、残念に「記録」に他ならない。しかしながら、カメラレンズメーカーとして知られているSIGMA社の創始者である、山木道広曰く、「人は心動かされた時、幸せな時に写真を撮る」と現社長である2代目の山木和人に教えている1)。SIGMA社は、レンズメーカーから出発したメーカーだからこそ、他のカメラメーカーにはない思想が根底にあり、写真のもつ意味を今でも大事にしているのかもしれないが、この言葉はシャッターをきる(撮影する)行為に特別な意味がある人にとっては、うなずける話に違いない。また、イタリアの写真家であったルイジ・ギッリ2)も、写真にはその人個人の物語やその人の存在物との関係が色濃く反映され、その考えがカメラマンにとって大事であることを説いている。このことから、写真を単なる「記録」から「芸術」としての含蓄を持たせるためには、シャッターをきる(撮影する)行為に特別な意味を持たせなければならないことは自明であろう。
 ここで一枚の写真を右に提示したい。なんの変哲もない海の写真である。実は撮った前後の文脈についてほとんど記憶がない(場所も時間も)。しかしながら、この写真の存在の記憶がなぜかいつまでも忘却しない。そこが不思議でならない。これを読んでいる方は、この写真についてどのように感じるのであろうか? これが「芸術」として成り立つのかは、読んでいる人の判断に任せたいが、筆者にとってはこの写真は、「記録」でなく、不思議と「記憶」に残る写真である。

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1) Voice. Kazuto Yamaki: SEIN 1, 6-12, 2014.
2) ギッリ, ルイジ: 写真講義. みすず書房. 2014.



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