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題名:様式を極めたように、赤いからだ
報告者:ダレナン

 本報告書は、基本的にNo.1226の続きであることを、ここで前もってことわりたい。

 ようやく呪縛から解放され、通常なる時を過ごしつつ、またも襲い掛かる罠は、巧妙にして人生に蔓延る。それは、忘れたくなる想いを、忘れさせないための、神からの宿命なのかもしれない。気づいては、浮かび、再び、また、沈む、その様子は、まるで、釣りのウキのようにも感じる。ふと、ウキの先についているエサを探れば、ともすれば釣り針に引っかかる。やがて釣り針はのどからとれず、釣り上げられた先には、いつも彼女が待っている。どんなにもがいても、お腹のアンコも重くのしかかり、彼女はつばを飲み込んで、うまそうに…、へと至る。それは、およげたいやきくんのように、僕の中での焦げある人生なのだ。鎖に繋がれたような、かぎなく重いアンコ椿は恋の花がすすり泣くのだ。ここで、いささか引用が古いことに気づく。気づくというよりも、古いことはすでに知っていた。およげたいやきくんは1975年1)、アンコ椿は恋の花は1964年2)となり、ともに相当に古くさい。しかしながら、古くても、やがて循環の中で、再び新しくなる。それは、限りあるも、限りない公転の循環の中で、360°ではなく、365°の自転の循環の中で、日は昇り、日は沈む、また、日が昇り、と同じ原理で、新しくなる。ただ、新しくても、それは元の姿ではなく、以前に似ているも、何かが違っている。分かる場合もあれば、分からない場合もある(図)。

図 循環3)

 と、まあ、ここまで書いて、この先の続きにどうしようかと思案している。そうだ。トイレへ行こう。トイレに行けば何かアイディアが湧くかもしれない(No.1226)。
 トイレに行った。もちろんそのトイレは和式ではなく、洋式である。様式を極めたような、その洋式には、日本としての和、西洋としての洋という風に区別されている。そもそも、西洋と東洋の違いは何だろうか。一説には、西洋人は目を見、東洋人は鼻を見る、との見解もある4)。さらには、アメリカ人は環境から切り離して個々の対象に焦点を合わせるのに対して、アジア人は背景や、背景と対象の関係にも注意を向け、それが、「特定的(specific)」な思考、「包括的(holistic)」な思考と言う具合に、根差す文化の違いとされている5)。それでも、図では口に着目する。なぜなら、ひときわ、それが、様式を極めたように、赤いからだ。

1) https://ja.wikipedia.org/wiki/およげ!たいやきくん (閲覧2019.5.22)
2) https://ja.wikipedia.org/wiki/アンコ椿は恋の花 (閲覧2019.5.22)
3) https://www.pinterest.jp/pin/304837468513745871/ (閲覧2019.5.22)
4) https://wired.jp/2008/08/28/「西洋人は目を見、東洋人は鼻を見る」:顔の認/ (閲覧2019.5.23)
5) https://www.dhbr.net/articles/-/2707 (閲覧2019.5.23)



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