題名:幸福の概念は現実の体験に基づいて形成される
報告者:ナンカイン
時に、ある時に、ふと、感じる。それが言葉であれば、明言ともなり得るかもしれない。「知ることが少なければ愛することも少ない。」1)とは、かのレオナルド・ダ・ビンチが残した名言の一つであるが、ダ・ビンチもこの言葉が後世にまで残るとは思っていなかったかもしれない。いくら天才といえども、真の未来は見ることができない。できるのはタイムマシーンの開発者のみである。ダ・ビンチといえども、タイムマシーンは発明していない。しかしながら、名言として今でもここに残っている事実は、このダ・ビンチの言葉に何かがあったからに違いない。その解釈は、個々個人に任せたいが、表題の「幸福の概念は現実の体験に基づいて形成される」も明言の一つとなるかもしれない。それは、今は分からないものの、それを紐解くべく、報告書のNo.405でのテキトーな直観を踏襲して、ここに記述したい。なぜなら、この言葉が気にいったという、単純な理由からである。これを知ることは、ダ・ビンチ曰く、愛することを多くするきっかけとなるであろう。
「幸福の概念は現実の体験に基づいて形成される」はフランスのバンド・デシネ作家ジュリー・マロ氏による「ブルーは熱い色」の中の登場人物、エマのセリフである。場面的には主人公のクレモンティーヌの迷いについて、エマの過去の経歴からの流れでクレモンティーヌに説明したセリフであるが、それによってクレモンティーヌは迷いを払拭できた。その詳細は「ブルーは熱い色」を読んでいただければ幸いであるが、要は、「幸福と想える形のないものは、現実の世界において身を持って対話することで、ようやく形となって心に表現される」、と解釈してもよいかもしれない。考えてみると、幸福も、体験も、あるいは、現実も、物ではない。愛も物ではない。その物ではない物が、実はヒトの心のモノであることに気づく。ここで、物・モノ・ものについて日本語で読めば、すべて“MONO”と発音できるが、もちろん消しゴムではない。これについて、民俗学者である佐野賢治博士は、”INOCHI”を例に、「漢字の”生命”が目に見える身体に即して生物学的・医学的に使われるのに対して、ひらがなの”いのち”は不可視の霊魂を含んだ人間的・文化的用語とされる。そう考えるならば、カタカナの”イノチ”の用例は”モノ”と同様に人間存在を自然との関係性を含めて、全体的にとらえる視点としている。」2)と述べており、漢字・カタカナ・ひらがなの使い分けをうまく説明している。佐野博士に習えば、幸福も、体験も、現実も、あるいは、愛も、物ではないものの、心に形成されたことで、形としてモノになる。すなわち、全体的にとらえる視点が生じたといえる。幸福も、体験も、現実も、あるいは、愛も、知ることによってダ・ビンチの境地へと到達できるのかもしれない。ゆえに、「幸福の概念は現実の体験に基づいて形成される」を追求すると、
「幸福を知るには、全ての現実を受け入れ、それを部分的に”消すことなかれ”」
となるのであろう。現実の、いいも、わるいも、消してはいけない。幸福を知るには、それを受け入れなければならない。それは、よく消える消しゴムの” MONO”であっても、である。その先には、汚れても幸せが待っている(図)。
図 MONO3)
1) http://www.oyobi.com/maxim01/10_08p2.html (閲覧2018.4.19)
2) 佐野賢治: もの・モノ・物の世界 -序にかえて-. 「もの・モノ・物の世界 新たな日本文化論」印南俊秀・他(編), 雄山閣. 2002.
3) https://www.amazon.co.jp/トンボ鉛筆-MONO-消しゴム-モノEPE01-JCC-561/dp/B00LJP4ON4 (閲覧2018.4.19)