題名:論文「映画が人に与える影響」から、映画に関する報告書を記述したい影響を受けた論考: PartⅠ
報告者:ログ
映画は、映画の父とも称されるフランスのリミュエール兄弟によって、1895年の映画「工場の出口」から事実上始まり、それから123年経った現在でもなお、映画は映画として存在する(報告書のNo.702も参照。リミュエール兄弟に関しては、ティエリー・フレモー監督による映画「リュミエール!」があるので、そちらでも詳しい)。Netflixなどの様々な動画配信サービス(Video On Demand Service:VOD)によって、映画を観るという形式は大きく変化したが、この先、映画自体はなくなることはないと考えられる。それは、映画自体が、映画という媒介によるもう一つの現実世界でもあり、映画の内容が非現実世界であっても、それを映像化することは現実化された世界に他ならないからである。すなわち、映画がこの世からなくなるとすれば、世界がなくなることをも意味する。言い換えるならば、世界に人類が存在しない世界である。ゆえに、人類がいる限りは、映画は存在する。映画におけるインタラクティブ性は、ゲームほどではないにせよ、映画もゲームも、”物語り”という世界観があり、それは、人類が人類として目覚めた文化の根底でもあり、それが、映画という文化1)にも結び付く。
一方、VODの台頭によって映画館自体がなくなる危惧もある。その点については文献2)に考察を譲りたいが、近年のシネコンや複合映画館と呼ばれるシネマコンプレックス(1つの施設に複数のスクリーンがある映画館)が増えている現状から1)、映画館自体もなくなることはないであろう、とここは願いたい。映画館という「場」については、文献1)が示すように、他の人たちと映画を体験する「場」でもあり、その映画を観たときのことを「想起」「再-体験」させる「場」でもあり、映画作品は、その「場」を語り合うものとして、楽しむ、”物語り”を提供する。それこそが、映画館の魅力である。それは、まさに、報告書のNo.711にも示されているように、人類に「超越的なもの」をもたらしたラスコーの洞窟と壁画の追体験にも似ている。
その映画を称する用語は、実は、様々単語がある3)。文献3)によれば、”movie”は当たり前であるが、”film”という言い方もある。その他、ハリウッドで使われている”motion picture”などもある3)。一般的な”cinema”の起源は、先に示したリュミエール兄弟によって発明された撮影・映写機のcinématographeから来ているが、そのcinématographeは、動きを意味するギリシャ語”kinesis”から由来した”cinema”と”tographe”、すなわち、「動く写真」という意味から生じている3)。さらに、映画での動きは、イリュージョンを与えること3)が重要視される。すなわち、平面のスクリーンに日常的三次元をより生々しく表現するためには、その被写体がスクリーンの外でも存在するような現実感や身体性が必要であり、その現実感と身体性があればあるほど、映画の中で再現された環境、つまり作られた世界が現実の環境に近付くことになる3)。そして、被写体に現実感と身体性を与えるためには、その被写体が生命を持っているような存在に見せることが重要で、これによって、観客は平面に映される被写体は二次元であっても、動きが三次元的存在として感じられるようになる3)。この見せ方でもって、観客の内的感覚を刺激し、感情を豊かにさせ、生命を持っていないものに生命を、魂を持っていないものに魂を与える3)。これが、アニミズム的思考に誘導させる3)。と、ここで、引用しすぎて、紙面が終了した。論文「映画が人に与える影響」からの詳細な論考については、次の報告書に譲りたい。
1) 石垣尚志: 映画文化の現状と可能性 -市民映画館とミニシアターを事例に-. 目白大学人文学研究 6: 99−111, 2010.
2) 佐々木秀: 映画館は VOD に負けてしまうのか. 上智大学経済学部経営学科卒業論文. 2013.
3) 尹政旻: 映画の演出における「動き」についての研究. 大阪芸術大学大学院博士論文. 2016.