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題名:「研究」的指南
報告者:ダレナン

 映画やグルメと同じくして、「研究」にはA級、B級がある。時には、C級もあるも、いずれにせよ夏休みの自由研究とて十二分に「研究」と言える。しかしながら、大人になると、自由な「研究」はできない、しない。それがC級であったり、B級であったりする場合は、「研究」の価値がないものと思い込む。
 ここで、「研究」について振り返るために、「研究」の科学的な側面を捉え直すと、雪の科学者で有名であった中谷宇吉郎博士曰く、「現代の科学は「学」であるが、古来の日本人の科学は、「芸」あるいは「行」であった」1)ことが指摘されている。さらに、「芸」としての科学の例えとして、「立派な豆腐をつくるには、栄養学の知識よりも、豆腐のつくり方の経験がものをいう。茶わんお洗い方に、分子の凝着力の理論はいらない。それよりも、一つ一つの問題について、自分でちょっと考えてみることの方がより有効である」1)ことを述べている。また、「行」としての科学の例えとして、「昔の日本の農夫たちは、今日のいわゆる知識というものは持っていなかった。…中略…。そういう農夫たちが、自分では意識しないで、現代のいちじるしく進歩した農学の常識を、完全に打ち破っていた」1)ことを述べている。これを称して、生活の中にとり入れる科学が「芸」、生活の知恵として身体にしみこんだ科学が「行」となる1)。そして、すべての事物を、ものと見て、そのものの本体、およびその間にある関係をさぐる。これが、科学、本来の「研究」の基となる。ゆえに、そこには1流、2流、あるいは、3流の違いは、ないはず、である。主婦の、あるいは、主夫の日々の料理も、科学である。美味しくするための主婦の、あるいは、主夫の「研究」には、余念がない。一方で、映画に関しては、文献2)にもあるように、B級は「安っぽい映画」、「くだらない映画」、「いまいちの映画」などの低い評価で持って示される。ただ、条件的には間違いなくB級でも、名作といわれ多くの人々に愛された作品もあり、また、現在ではカルト的な意味合いも多分に含んだマニアックな傾向すら帯びつつあるのも特徴である2)。そこで、当ショは、報告書のNo.50でも示したように、真のB級たる研究所として日々邁進している訳である。
 しかしながら、うれしいことに、A級の研究者でもある2015年にノーベル物理学賞を受賞した東京大学宇宙線研究所の梶田隆章博士は、自身の「研究」についてこう述べている。

「基礎研究はべつに、社会に役立つことを念頭に置いてやっているわけではありません。研究の中でやがて社会の役に立つものが出てくるかもしれませんが、誰もどれが役に立つかなんて分かりません。だから、基礎研究は幅広くやることが重要なんです。また、例えば私がしている宇宙の研究などは恐らく、将来も社会の役には立ちません。でもそれはそれとして人類の知を拡大する、人類全体の活動に参加するという意味でやるべきだと考えています。それなりのリスペクトをしてほしいと思います。」3)

…将来も社会の役には立たない。A級の研究者である梶田隆章博士のB級的愛すべき発言が、実に心地よい。その一方で、博士は、日本の大学の研究力はガタ落ちであることも指摘している。そのため、今後大事になるのは、筆者も含めた一般の方々による、科学の「芸」、科学の「行」にも、ヒントがあるのかもしれない。

1) 中谷宇吉郎、福岡伸一(編): 科学以前の心. 河出書房. 2015.
2) 小林憲夫: ハリウッドにおける「B級映画」の史的考察. 嘉悦大学研究論集 49: 107-122, 2006.
3) https://web.smartnews.com/articles/frFUAPLWZCh (閲覧2018.12.5)



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