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題名:エンタテインメントは科学になりうるのか?
報告者:ナンカイン

 エンタテインメントは、一般的には「遊ぶ」ことに分類され、「勉強」ではないと思われている。しかしながら、「勉強(study)」の語源はラテン語の「stdium」から来ており、本来は情熱、熱心という意味になる1)。梁塵秘抄 巻第二 四句神歌 雑には、こんな歌が詠まれている2)。

遊びをせんとや生れけむ 戯れせんとや生れけん
遊ぶ子供の声きけば 我が身さえこそ動がるれ

その大意は、「遊ぶために生まれて来たのだろうか。戯れるために生まれて来たのだろうか。遊んでいる子供の声を聴いていると、感動のために私の身体さえも動いてしまう」というものであり2)、熱心に遊んでいる子供の様子から、「勉強」における本当の意味が見えてくる。人は大人になると、「勉強」を強いるものとして考え、「教育」も「強育」となりがちだが、本来の「勉強」はこのような「遊び」から生まれたものである。感動のために私の身体さえも動いてしまうのは、そこに人として生きる上での価値があるからである。その意味でとらえれば、「学習」は「楽習」でなければなるまい3)。楽しいから学びたいのであって、楽しくないものは学ぶことの価値がない。逆に考えれば、楽しくないをどうすれば楽しくできるかが、「楽習」のミソである。
 オランダの歴史家であるヨハン・ホイジンガは、自書の中で「ホモ・ルーデンス」という言葉を生み出している。現在の我々は「ホモ・サピエンス」であり、「ホモ=人」、「サピエンス=知恵のある」である。しかしながら、ホイジンガの「ホモ・ルーデンス」のルーデンスは、「ルーデンス=遊戯」であり、遊戯が人間活動の本質で文化を生み出す根源であり、生活に意味を与えると主張している1,4)。まさに遊戯は人の生活の根底にあったのである。
 そこで表題である「エンタテインメントは科学となりうるのか?」についての解であるが、明らかに「なりうる」と言えよう。「エンタテインメント=ルーデンス」である。ルーデンスならば、ホモ=人を理解する上で、それはなくてはならない。しかしながら、現在の学術的な世界では、エンタテインメントの考えは、一段低く見積もられている。「遊び」のあるテーマパークやゲーム、バラエティ、お笑いなどの「面白さ」は、なぜか科学的な対象からはずされていることが多い。みけんにしわを寄せ、小難しい顔をして、難しいことを議論しあえることだけが本当に人の生活において価値があるのであろうか。
 近年では、少しずつではあるが、学術的な世界でもこの流れが変わろうとしている。特に、ゲームを扱う情報科学からは、エンタテインメントが学問になりつつある5)。これは非常によい傾向である。
 しゃべる、笑う、真似をする、描く、想像する、足し算や引き算、ゼロの発見…、いずれも現代では当たり前のことであるが、人の進化においてこれらは間違いなく科学的なエンタテインメントであったに違いない。

1) http://aiit.ac.jp/column/view/25 (閲覧2015.8.19)
2) http://www.nextftp.com/y_misa/ryoujin/hisyo_06.html (閲覧2015.8.19)
3) 杉渕鐵良: 自分からどんどん勉強する子になる方法. すばる舎. 2015.
4) https://ja.wikipedia.org/wiki/ヨハン・ホイジンガ (閲覧2015.8.19)
5) 長嶋洋一: 「エンタテインメント科学」から「エンタテインメント学」へ. 情報処理学会研究報告. 2014.



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