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題名:映画館とラスコーの洞窟にある壁画との類似点
報告者:ナンカイン

 報告書のNo.702とNo.703において、「寝ながら+香ながらの映画館」の提案がなされた。ここでは、そのような最新の映画館の形態と言うよりも、あえて古くからある映画館について考えるとともに、その古くからある映画館をさらに遡ること、先史時代(文字を使用する前の人類の歴史1))のラスコーの壁画が描かれた時代との類似点について探り、人類の事始めについて検討してみたい。
 古くからの映画館は、今のような複合的な映画館ではなく、地元に密着した映画館が多かった。すなわち、TVが家庭に普及する前は、娯楽の位置づけとして映画館が存在した時代である。図に1955年からのスクリーン数を示すと、1961年をピークに軒並み減少し、近年は複合映画館もあり、やや増加傾向にはある。同じようにTVの普及率を文献3)で調べると、1967年頃からTVが各家庭に普及し始めるとともに、1970年には20%を越え、1975年には90%を越えて普及している。この情報と図の推移を照らし合わせると、明らかに映画館の減少はTVとの関係が深いことが分かる。しかしながら、このようにしてスクリーン数の増減はあったもの

図 スクリーン数の推移2)

の、映画館の上映形態は、近年は3Dや動く椅子(MX4D)と様々な仕掛けはあっても、暗闇の中、目の前のスクリーンに向かって、上映される点はそう大差ない。その利点は、映像や音響に集中でき、かつ、大きな意味として、映画という物語の中に、その暗闇の中にいる人が一緒になって没頭できることに他ならない。同じ映画であっても、家庭で明るい中で見ると、明らかに集中が途切れ、映画館ほど楽しかったと思えることが少ないのは、なにも筆者だけではないであろう。
 一方、先史時代のラスコーに目を向けると、洞窟という暗闇の点で映画館と同じであり、かつ、洞窟内に描かれた壁画は、当時の人類の置かれた自然環境を摸したものであり、そこにリアルな情景が存在する。さらに、そこに、例えば、部族の長老が、松明を片手にその洞窟内にいる民衆に語りかける様は、明らかに映画館の音響と重なる。壁画が映像となり、長老の声が音響となる。必然的に、松明の先の壁画に集中せざるを得ない。そこで、長老たる語り手が、その壁画にまつわる物語を巧妙に物語る。すると、民衆はどうなるであろうか。明らかに民衆の精神に何らかの影響を与える。それは宗教的な概念(No.102も参照)を民衆の精神内に形作るとともに、それが凄いとの意識(芸術的な意識)に変わり、やがて彼らは、人となるべく精神活動に目覚める。
 報告書のNo.705でも示したが、野生の科学研究所所長である中沢新一博士によれば、このラスコーの暗闇の洞窟内では、増殖儀礼(→組合のような結社)が行われ、壁画は、(一種の)芸術のはじまりと定義する4)。さらに、暗闇内でもたらされる内部視覚によって、ホモサピエンス・サピエンスは「超越的なもの」を感じ、そこから宗教や芸術を作り出していったとする4)。こうしてみると、実は映画館は、人類が人となるべく潜在性を保ちつつ、さらに、精神に影響を与えやすい大きな資産として位置付けられるのかもしれない。

1) https://ja.wikipedia.org/wiki/先史時代 (閲覧2018.1.23)
2) http://www.garbagenews.net/archives/2034792.html (閲覧2018.1.23)
3) http://www.garbagenews.net/archives/2057299.html (閲覧2018.1.23)
4) 中沢新一: 芸術人類学. みすず書房. 2006.



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