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題名:「考え方の違いは是正できない。できるとしても、どちらかが、結局は譲歩するだけである。それは意味のあることなのか?」に関する主観的時間の知覚論
報告者:ダレナン

 社会的に存在するのが人であり、その社会的な存在になしには、人は存在しえない。それが、人と人とのつながりから生まれる、動物としてのヒトという文化的な背景でもあり、それ自体がヒトと、他の動物を分かち合う存在理由の一つになるのであろう。しかしながら、ヒト以外でもこのような互いの連携を意識しあい、存在を確立する動物も実際は少なくはない。少なくとも霊長類に属するチンパンジーやゴリラやオラウータンなどは、ヒトとは違っても、その類間では類間における通例的な社会が存在していることも事実である。ただし、ヒトの場合は、その社会性がより一層複雑になる。
 自分ひとりではこの世では生きてはいけない。そう理解しつつも、人と人との関係がこじれた場合には、さらに問題が難しくなる。特に表題に示したように、人は個人の考えを持ちつつ、その考えが他の人と同じではないという意識が高い状況下でのバトルの場合には、非常に困惑する。
 人と人の考えは、還元すれば、個人の「主観世界」1)に委ねられる。そこでは、理性的な判断よりもむしろ、感情的な考えに流されやすい(報告書のNo.511も参照)。理性よりも感情がものを言うのは、個人レベルだけではなく、社会全体に関しても当てはまる。そのため、認識の罠にはまって、非合理な選択をしてしまうことも少なくない2)。その時、ヒトは限りなく「動物的である。」と言えよう。しかしながら、どのように理論的に説明したしても、個人による「主観世界」が感情的に勝っている場合、バトルの上での結論は、結局はどちらかがやがて譲歩しなければならないのも事実である。この譲歩が譲れないという人であれば、そこに反論的な意見をも提案できる業も遂げるかもしれない。しかしながら、無用な意見の討論は、水掛け論に終わり、結局は時間の無駄でしかない。やがて精神的に疲弊した方が、譲歩する。せざるを得ない。そこで、水掛けが終焉する。
 一方、時間は無限ではない、有限なのである。特に一個体におけるヒトという存在では、明らかに時間は有限である。長くてもせいぜいが100年であり、多くの人は70~80年という時になろう。その有限個の時間における水掛けは、譲歩した側の意識をも無常に流してしまう。
 ある個体が死んだ後も時間の流れは続く。時間の流れは従順にも、宇宙の法則に従う。しかしながら、精神的に疲弊した個体は、意識の流れから時間の流れも正常に知覚できなくなる。精神的に疲弊すると、時間を知覚する機構に変調をきたし、ゆえに、脳内のタイムクロックが正常に機能しなくなる。主観的時間の知覚にも狂いが生じる。それによって、精神の世界枠の時間、言わば、精神の時空にも歪みが生じ、その歪みは何かを吸い込み始める。精神のブラックホール(図)の誕生である。

図 ブラックホール3)

1) 西垣通: 集合知とは ネット時代の「知」のゆくえ. 中公新書. 2013.
2) モッテルリーニ, M: 経済は感情で動く. 紀伊国屋出版. 2008.
3) http://jila.colorado.edu/~ajsh/insidebh/index.html (閲覧2017.7.23)



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