題名:のべつなく巻き起こる生と死の晦渋
報告者:ダレナン
「生きてんのは 死ぬため そんで産まれるくる それだけ」1)とは、宇多田ヒカルさんの曲「忘却featuring KOHH」2)でのKOHH氏が詠む詩(もしかして曲として捉えると、セリフかラップかもしれないが、ここは詩としたい)であるが、その通りで、ヒトの一生はトロッコに乗った遺伝子の如く(報告書のNo.428も参照)、一個体でいえば、生から死に向かう一方向でしかない。その、のべつなく巻き起こる、個体と個体から繰り返される生と死の循環でもって、人類という歴史が残る。その人類の歴史がどこまで続くかは分からないものの、どのような人であっても、不老不死はなく、やがて生涯を終える。
ただし、である。その一個体の生涯の中にも、死と生が、のべつなく巻き起こる。それは死と生をもった精神的な疲労と興隆の繰り返しであり、人として成長するかは、その捉え方による。「楽あれば苦あり 苦あれば楽あり」とはうまい例えである。
文献3)によれば、我々は、娑婆(シャバ)(シャハーという古いインドの言葉が語源)という世界に住んでいる。それには、「忍耐の世界」という意味がある。そして、その忍耐の苦しみを4種類に分けて「四苦」とする。第一に、この世に生まれ、生きていく苦しみの「生(しょう)苦(く)」、第二に、やがて、成長が老いの苦しみに変わっていく「老苦」、第三に、さまざまの種類の病の「病苦」、そして第四に、死を迎える恐怖と肉体的な苦しみの「死苦」。これら生・老・病・死でもって「四苦」となる。これが一個人たる、その人の生涯に、のべつなく巻き起こる現実的な苦となる。その「四苦」のモンスターは怪獣となって、人の生涯にとって、晦渋(かいじゅう)(*)的に理解のしがたい得体のしれない存在でもある。回避しようとも、ヒトであれば、誰にでも平等に与えられた、生物的な遺伝である。
「四苦」のうち、老・病は生の中に包括されることから、まとめると実質的には「二苦」となるのかもしれない。その「二苦」は、宇多田ヒカルさんの詩にあるように「出口はどこだ 入口ばっか」を意味し、永遠に生きている間は「深い森を走る」こととなる。一個体の生涯の中で、走り続けた際に森の中で、出会う怪獣は、晦渋的に精神的な疲労をもたらす存在でもあり、「明るい場所へ続く」と信じた道は、決して「明るいとは限らない」。怪獣から致命的なダメージを与えられた個体は、アイテムを探せない限りは、ヒットポイントが0となり、精神的な死を迎える。それ以後、その個体からは生の循環が閉ざされる。「苦あって楽なし」となる。しかしながら、ヒトにでも平等に与えられた、生物的な遺伝であるならば、著しい精神的な死であっても、その振幅の大小が如何様なものであっても、「楽あれば苦あり 苦あれば楽あり」と信じることが大事なのかもしれない。
図 肉5)
そうして、人類が発見した「肉」の美味さは(図)、「二苦」の美味さでもあるのかもしれない、と伝えたい。
*晦渋: 言葉や文章がむずかしく意味がわかりにくいこと。また、そのさま。難解4)。
1) http://j-lyric.net/artist/a001c7c/l03cb3c.html (閲覧2018.10.26)
2) https://www.youtube.com/watch?v=JxHubxeh8J4 (閲覧2018.10.26)
3) http://www.koukokuji.com/sermon/pg488.html (閲覧2018.10.26)
4) https://kotobank.jp/word/%E6%99%A6%E6%B8%8B-457530 (閲覧2018.10.26)
5) https://item.fril.jp/d0d8993f2f8e9cb1c08f05865944e877 (閲覧2018.10.26)