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題名:コミュニケーションにおける誤解を説く –ヒューマン-ヒューマン間の不満を探って-
報告者:ダレナン

 ヒトの生活ではコミュニケーションを欠かすことが出来ない。そもそも、ヒトはヒト一人では存在は成し得ず、ヒトとヒトとの間の何らかの連携で生活が成される。そのために、その連携をうまく成し得るために潤滑的な存在として、コミュニケーションが必要となる。しかしながら、多かれ少なかれ、このコミュニケーション上にミスが生じることもあり、それによって互いの間に不満が生じる。それが、コミュニケーションの誤解が招いた、ヒューマン-ヒューマン間の不満となる。2ヒューマンによって内部フ―マンが溜まり、それが二者間のワダカマーリーとなる。こうなると、お互いの意識のずれから、最悪の場合は二者間の決別へと至る。
 では、なぜこのようなコミュニケーションの誤解が生じるのであろうか?
 それは、どのようなコミュニケーションを成そうとも、ヒトの知は「主観世界」の中から生まれるものだからに他ならない1)。どのようなテクノロジーが進歩しようとも、テレパシーが二者間に完全に実現しなければ(報告書のNo.230も参照)、ある人の心の主観は、他人からは決して詠むことができない(報告書のNo.479も参照)。それゆえに、コミュニケーションを極端に恐れる”コミュ障”なる用語も発生する。相手の真意が詠みとれ、かつ、その相手の心に、自分に対して”いしてるの心”(報告書のNo.417も参照)があると確証されれば、”コミュ障”はこの世から消えることになるであろう。さらには、”コミュ障”ではなくとも、恋愛などにおいても、コミュニケーションに根ざす誤解は生じることがなくなるに違いない。
 フランスの作家で、「失われた時を求めて」で著名なマルセル・プルーストは、かつてこう述べている2)。

The real voyage of discovery consists not in seeking new landscapes, but in having new eyes
(真の発見の旅とは、新しい景色を探すことではない。新しい目で見ることなのである)

これをコミュニケーションで発信し直すと、次のように言えるかもしれない。

The real mind of discovery consists not in exploring new communication, but in feeling new mind’s eye
(真心の発見とは、新しいコミュニケーションを探ることではない。新しい心眼で感じることなのである)

この”心眼で感じる”ことがやはり重要である。古くから”目は口ほどに物を言う”、ということわざがあるが、ヒトのように身体をヒトの骨格筋に摸したロボットのROBOYであっても、なぜか眼力が半端ない4)。そこにROBOYへの愛らしさが生じる。

図 ROBOY3)

1) 西垣通: 集合知とは ネット時代の「知」のゆくえ. 中公新書. 2013.
2) http://estorypost.com/名言・格言/マルセル・プルースト名言/ (閲覧2017.5.24)
3) http://roboy.org/ (閲覧2017.5.24)
4) https://www.youtube.com/watch?v=P7n1j1iZ9Vo (閲覧2017.5.24)



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