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題名:「自分という人間を知ることはできない。いや、できる。やはり、できない。…」という問答の繰り返しから、悟りを開く
報告者:ダレナン

 多かれ少なかれ、人は他人に対してある程度の理解を深めるべく型にはめることが多い。例えば、血液型による性格判断、「16タイプの「血液型」で、人はここまでわかる!」などは書物としても興味深く、根拠があるないは依然として不明の多い血液型の占い(or科学?)であるも、その型にはめることで相手を知る一助ともなる。そのことによって、相手を理解したと納得できる。しかしながら、相手を理解したと納得しても、意外と理解できていないのが、自分自身である。鏡が発明される前までは、自分の内面はおろか、背面すらもよく見えなかったであろう自己像であるが、そのような時代から、自分自身とは一体何者であろうか、と血液型すらも頼りに(分析)出来ないことゆえに、自己自らに邪推することもしばしばであったに違いない。
 人と自分におけるとある状況下においては、相手からあなたはなになに型なので、こういう性格、として認定された時、自分は「そうだったのかぁ。」と思う。そう思いつつも、「そうなのかぁ?」とも思う。それの繰り返しで相手からの定義に反することなく、自己という人格が自然と形成されやすい(影響されやすい)ことも多々ある。言い換えれば、「あなたはこういう人よ…。」という定義に当てはまるべく、自分は「こういう人だ…。」と括ってしまうことで落ち着く。その状況が積もり積もって、自分という人間を次第に確立させる。ただし、血液型の占い(or科学?)は、よくいえば自分という人間を確立させるツールの一つとも成りえるが、そこに根拠がない以上、その分析が科学的である、と断定できない。結局、人は、他人のことはよく見えるけれど、自分自身のことは、案外見えていない。
 しかし、である。一方で、自分という人間は決して人からの影響ではなく、血液でもなく、自己自らで形成されたものであるという反論もあろう。確かに生物学的には、栄養を摂取するのは自分自身であり、その栄養で心身ともに自分自身を作り上げているのであるから、その意味で言えば自己自らは自分自身で形成させていることには間違いない。一方で、そこの考えまで至る点で厄介となるのは、人間が持つ知能である。自分という知能が、自分が作り上げたものであるのか、他人からの影響で作り上げられたものであるのかについては、何とも判断しがたい。さらに、この知能に追い打ちをかけるように、氏か育ちかの論争が巻き起こる。自己自ら形成したと思える自分自身であっても、それすら氏か育ちかの見方で判別しにくい現象が起こる。知能の遺伝に関して、帯広畜産大学の後藤健博士の記述によれば1)、人格として、外向性、神経症的性格、良心(誠実)、好感性(協調性)、率直性(開放性)の5つの形質によってパーソナリティを特徴づけられるも、それは遺伝率60%で決定され、さらに自尊心、社会的態度、性的指向性、学力などの一般的知能、空間論理能力、言語的論理能力もこの遺伝率に含まれている。しかしながら、現実の知能は、知能訓練(受精卵誕生後の生活体験)によって変化し、40~80%は遺伝的なものともされている1)。このことから、結局は40~80%のばらつきが多い範囲でもって、自分という人間を知ることとなる。
 遺伝子はメビウスの帯上に貼りつくトロッコ列車に乗って運ばれる(報告書のNo.428も参照.)。そのスリル満点の過程で、人は自己自らを、時空間を越えて、肌で何かを感じることとなる。それはトロッコ列車のスピードがもたらす風ではないであろうが、それが知能訓練によって遺伝の範囲である40%を下回った時(自己の知能が遺伝を越えた時)に、人は何らかの風を感じる(悟りを開ける)のかもしれない。

1) http://www.obihiro.ac.jp/~rhythms/future/Nature_Nurture.html (閲覧2017.6.1)



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