題名:人生に課せられた生得的な試練を知れんでは済まされない
報告者:ダレナン
人が生きる上で多くの試練が待ち受ける。その中でも、習得的(産まれた後の学習)によらない生得的(産まれた時から備わっている特性)な試練は、扱いが困難である。幼少のころには時間という概念がないために、その試練も先を読むことなく、まさに知れん(*)、となるであろうが、成長とともにそういう訳にはいかない。富山短期大学の石動瑞代氏3)によれば、乳幼児期の発達として、1つのときは、なにもかもはじめてだった、から、2つのときで、ぼくはまるっきりしんまいだった、になり、3つのときで、ぼくはやっとぼくになった、となり、4つのときは、ぼくはおおきくなりたかった、とイメージされる。このことからも明らかなように、4歳ぐらいで、ぼくはおおきくなりたかった、という明らかな他との比較が始まる。
この、おおきくなりたかったは、人全体の身体的な側面になる。しかしながら、この先、成長するにつれて、顔の作りやパーツ、手足の長さ、スタイルの善し悪しなどといった部分をより詳細に比較できるようになる。すると、感じるのが、なぜこんな風にうまれたのであろうという親への恨みともなる。DNAたる遺伝子は二重らせんによって捻じれているが、それを設計図とする身体的な特徴への影響は、あまり捻じ曲げられない。ゆえに、部分的に親と似るのは、出生から決定づけられている。産まれた以上、恨んでも仕方がない。望んで産まれていないと感じても、この世に生を設けた理由は、神のみぞ知る、である。
ただし、である。人は社会的な生き物である以上、他の人との比較は避けられない。Microsoftの創始者であるアメリカの偉大な実業家のビル・ゲイツ氏は”Don’t compare yourself with anyone in this world…if you do so, you are insulting yourself.(自分のことを、この世の誰とも比べてはいけない。それは自分自身を侮辱する行為だ)”という名言を残している。しかしながら、この名言の意味は理解しつつも、遺伝子的には先に述べたように、すでに比較するならわしが4歳から組み込まれているのも、己自身である。この組み込まれている現象は、Microsoft Word の作者であり、Microsoftの社員番号77番の元従業員でもあったリチャード・ブロディ氏4)によれば、ミームに基づく。ミームとは心の中の情報単位であり、その複製が他の心の中にも作られるようにさまざまなできごとに影響を及ぼしてゆくものであるが、氏の著書「ミーム 心を操るウイルス」の中で、人間が強力な新しいミームを持ったある文化の中に放り込まれると、それは想像以上に伸るか、反るかの問題となり、あなたは自分の心を変え、同等意識からくるプレッシャーに屈服して新しいミームを自分のものとして受け入れるか、あるいはあなたから見れば頭がおかしくて不適当な人に囲まれて生きて行くという、きわめて居心地の悪い気分と戦い続けるかのいずれかが生じることが指摘されている5)。あまりにも己自身と異なる比較的な対象者との対峙は、己自身のミームにも試練となる。この試練は、知れん(*)では済まされない。
*: もしれない+~である=かもしれないのである、これが少し言いやすくなって、=かもしれんのであるとなる語。そのため、かもしれないで、不確実だがそうである可能性がある、といった意味の表現となる1), 2)。
1) https://hinative.com/ja/questions/5684623 (閲覧2018.3.12)
2) hhttps://www.weblio.jp/content/知れない (閲覧2018.3.12)
3) http://www.pref.toyama.jp/sections/3009/hp/isurugi-Frame.htm (閲覧2018.3.12)
4) https://ja.wikipedia.org/wiki/リチャード・ブロディ(閲覧2018.3.12)
5) http://www.geocities.co.jp/HeartLand/2989/meme.html (閲覧2018.3.12)