題名:死の境界
報告者:ダレナン
通常、あの世とこの世で区分されることから死の境界は存在する。しかしながら、その本を読んだ多くの人が印象に残っているであろう村上春樹氏の著「ノルウェイの森」では、死についてこのように表現されている。
「死は生の対極としてではなく、その一部として存在している。」
ここで死をAとし、生をBと仮定すると、数学的には集合に帰結し、「2つの集合 A、Bについて、Aに属する元がすべてBにも属するとき、すなわち、x∈A⇒x∈Bがaの取り方に依らずに成り立つとき、「BはAを包含する」といい、A⊂BまたはA⊆BあるいはB⊃AまたはB⊇Aと記す」1)こととなる。これを図示すると、図のようになる。ただし、この集合では、AはBに含まれてはいるものの、図のように明確な境界が存在する。はたして、村上春樹氏は、「ノルウェイの森」にて死の境界を示したのであろうか。
「ノルウェイの森」の主人公は、ワタナベトオルであるが、彼の周りには直子と緑の2人の女性が存在している。この2人の女性は、対極的な女性として描かれ、生と死をそれぞれ象徴しているとされる2)。ここであらすじを言うまでもないが、最終的に直子は自殺を選び、その死を分かち合った僕であるワタナベトオルは、最後は緑に電話をかけ、「世界中に君以外に求めるものは何もない、何もかもを君と
図 集合の図示1)
二人で最初から始めたい」と伝え、やがて生に戻る。僕であるワタナベトオルは、現実的には死んではいない。が、直子を介して死を巡る。現実的な、生物的な死は、確実に存在するため、自殺した直子はこの世に戻ることはない。しかしながら、僕であるワタナベトオルは、直子への強度な愛との道連れから一端、この世を去ることとなる。ここでは、生物的な死はないものの、精神的な死が確実に存在する。ゆえに、「ノルウェイの森」は文献3), 4)にもあるように、恋愛小説ではなく、僕と言う個人の喪失(死)から再生(生)への歩みを描いた物語に他ならない。
ここで、視点を変えて、宇宙空間での現象から先の表現を考えてみる。宇宙には誕生もあるが消失もある。その消失はブラックホールに代表されるように、超新星の爆発によってもたらされる。この時、星の質量が中性子星の最大質量である二太陽質量よりもずっと大きい場合での爆縮は、ブラックホールを形成する5)。そして、爆縮した星は、静的な外部観察者の立場で見ると、臨界周囲に永遠に凍結されているが、星の表面にいる観察者の立場で見ると、急速に凍結点を超えて内部に向かって爆縮していく5)。これからも明らかであるが、先の表現は、観察者の立場によって境界が異なる。外部観察者は死の境界が存在し、表面にいる観察者は死の境界がない。外部にいるか、表面にいるかの観察者としての相違は、個人の愛の深さによって決定される。
1) https://ja.wikipedia.org/wiki/集合 (閲覧2018.3.1)
2) http://www.soumushou.com/entry/2016/06/23/110615 (閲覧2018.3.1)
3) http://7star.hatenadiary.jp/entry/2015/03/01/000000 (閲覧2018.3.1)
4) https://kuraido.exblog.jp/8510446/ (閲覧2018.3.1)
5) ソーン, KS: ブラックホールと時空の歪み. 白揚社. 1997.