題名:文章の「新情報の後置になります。」
報告者:ナンカイン
文章を書くのは、とても難しい。書き手である自分一人では、その文面を完全に理解していても、読み手にそれがどれほど伝わっているかが、判断できないからである。すなわち、伝えたつもりでも、即、伝わったことが分かりにくいのが、文章の特徴でもある。そのため、書き手と読み手との間に、理解の乖離が少なからず生じている可能性も十分ある。仮に、書き手が100%の力量で伝えたと自負していても、読み手が10%ほどの理解であれば、その文面は伝わったとは言えず、読み手が60%以上の理解が得られていれば、その文面は一応目的を果たしたと言えるかもしれない。
人に伝えるのは、文章だけではなく、話す際にも同様である。例えば、講演会などで、講演者側が伝えたと自負していても、会場にはその講演者の情熱は分かったが、内容はほとんど伝わっていなかったという現象も少なくはない。そのことについては、以前のNo.32でも触れたが、情報のキャッチボールが出来ていないことには、どれほど優れた文章であっても、どれほど優れた講演であっても、現代○○と同じような解釈がなされる。「素晴らしい」、ような気がしても、「なにが素晴らしいのか?」となる。
そこで、ここでは、文章に関して、どのようにすれば、書き手と読み手の理解の乖離を少なくできるのかについて考えてみたい。
文章を書く際には「新情報の後置」という方法がある。例えば、その例として、以下の2つの文面を見比べてみる1)。
(1) 以上の処理手続きを計算機プログラムに書き下した。そして、それに種々の入力を与えて計算時間を観察した。その結果、所要計算時間は、理論どおり、入力データの大きさに比例することが確かめられた。
(2) 計算機プログラムとして、以上の処理手続きを書き下した。そして、種々の入力をそれに与えて計算時間を観察した。理論どおり、その結果が入力データの大きさに所要計算時間が比例することが、確かめられた。
この例を読めば、文意は変わりないものの、(1)の方が、(2)よりも幾分読みやすい。それは、与えられた情報が、後の情報にうまく繋がっているためである。すなわち、読み手の頭の中にある前の文の情報が、後の文の情報にも結びつきやすいことが、読み手に混乱を招くことなく、文面をスムーズに頭に入れることができることを意味している。この様に、一文と一文の間でも、情報と情報のキャッチボールがうまくなされていれば、読み手にとって理解しやすい文面となる。逆もまた然りである。
一方、分かりにくい文章は、特に日本語で多い。それは、あいまいさを一種の美徳とする国民性にもあろうが、その辺は、英語では比較的厳格に記述できる1)。文学的な作品であれば、散文も許されるであろう。しかしながら、古今東西において、多くの支持を得ている文学作品は、情報が頭に入りやすく、かつ、情景も浮かびやすい。そこには、作者の文章を書く能力も垣間見ることができる。ただし、筆者は「新情報の後置」などに注意し、文章を書く努力をしつつも、いつも「後置になります。」という、おそまつな結果が多いような気がしてならない。本報告書でも、読み手の方から「後置になります。」と言われないか、若干心配でもある。
1) 杉原厚吉: 理科系のための英文作法. 中央公論新社. 1994.
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