題名:哲学、思想、そして、あやしさ
報告者:ダレナン
哲学はれっきとした学問であり、実は難しいものではない。人が人として疑問をもった時点が哲学のそもそもの始まりである。これは現生、過去、さらにそれよりもかなりの大昔から普遍的な事実である。想像すること自体が人の特徴であり、これは霊長類学からも明らかとなっている1)。すなわち、あるヒトの想像が、すべての人の創造となり、そのベースに哲学がある。
一方、学問の体系として哲学が生まれたのは、古代ギリシアまで遡ることができる。今よりも科学が細分化されていない当時は、哲学が唯一の科学であった。偉大なる思想家が思想し、それをまとめあげたものが体系として残り、哲学の緒となった。現在のすべての科学について、その根源を紐解いてみればよい。今あるすべての科学は、結局は人間の理解という根本たる疑問に紐づいていることが明らかであろう。ハイデッガー曰く、「哲学の根本的努力は、存在者の存在を理解し、これを概念的に表現することをめざしている」2)。
個人の思想は、様々である。ある人には正しくとも、ある人には誤りとなることも少なくはない。特に偏った知識や見識に基づいて思想することは、良い悪いは別として、そこにあやしさが存在する。あやしさとは「怪しさ」でもあり、「妖しさ」でもある。変な人と思う人に話をされても「怪しさ」が漂うが、同じ内容でも魅力的な人が話すと「妖しさ」となり、魅了されてしまうこともしばしばである。
ここで哲学や思想、あやしさの関係を図式化すると、ひとつの概念図が浮かび上がる(図 上)。実はこれと同じくして、「優れたリーダーはどうやって行動を促すか」という疑問に対してシネック3)は、Whyから始められることがリーダーとして重要であり、Whyによって人は動くことを伝えている(図 下)。
図 哲学・思想・あやしさとWhy・How・What
この図から、物事の核心、ここでは哲学やWhyであるが、それによって人は納得が得られやすく、それがやがて行動となる、ということがよく分かる。人がなぜ人であるかという存在を示すことができれば、あらゆる人はその原理原則に基づいて行動を起こすことになるのであろう。偏った思想をもっていたヒトラーは、「アーリア人」が優越民族であると唱えたが、この危険な思想の背景には図と同じような関連性があったのかもしれない。あやしさをWhyとするところに、危険性が潜む。その逆もまた然りである。
1) 松沢哲郎: 想像するちから-チンパンジーが教えてくれた人間の心-. 岩波書店. 2011.
2) ハイデッガー, M: 存在と時間. ちくま学芸文庫. 1994.
3) http://logmi.jp/13519 (閲覧2015.8.31)