題名:永遠の1/2 -さかさまなエクスタシーの花をあなたに-
報告者:ダレナン
時にわきまえない自由さは罪なる自由さになるのかもしれない。しかしながら、言論の自由さは誰にとっても保証されている1)。それが正しければ、ここに示されている言論も自由さをもつことになるであろう。ただし、これを読むことでいささか、誰か(特定の読者の方)に対して嫌な気持ちを抱かせるものであれば、それは言論の自由さというよりも、身勝手な言論ともなりうる。やはりネットリテラシーは守りたい2)。ただし、自ら読み返すと、ここに記されている内容は、無害(無益)な言論かもしれない。一般的には、ある人にとって重要な言論(情報)は、その人が困っていることに対して、あるいは、何かを知識を得たいということに対する、明確な回答が得られた時に、そこに記述されている内容に、ピンとくる。どのような表現がふさわしいのかは分からないが、まさにピンとくる。その時、その言論(情報)を提供してくれた方は、その読者にとって、フォローすべき対象者となる。その読者もフォロワーとして目覚める瞬間でもある。そうして、数多くのフォローが、フォロワーからの信頼によって、有益な言論(情報)として、やがてネット上で評価される。
そのような今では当たり前の社会システムから鑑みると、ここに記された言論(情報)は、やはり無価値かもしれない。ただ筆者一人を除いて。それは、結局のところ、世に価値がないであろうことの記述は、筆者一人で悦に入る”印し”なのであろうか。傍から見ると、その紡ぎ出す際の言論は、忘我・恍惚でもあり、すなわち、エクスタシー状態とも言える。ただし、体のトレーニングが体操であるのと同じく、魂のトレーニングは、「あなたの愛と恵みをあたえてください。私はそれで充分です」との願いによって実現するエクスタシーを得ることに繋がり3)、それは誰にとっても普遍的な重要な事柄でもある。我を失い、悦に入る言論の記述を繰り返すことで、無価値でも、十分に永遠の1/2という領域に、自らがたどり着けるかもしれない。ゆえに、ここでの記述によって、あなたにもエクスタシーを、ということを控えめに伝えたい。ただし、そのエクスタシーは、あなたとともに別の次元でも分かち合いたい、というのは、霊操を鍛える上での、ともに学べる、霊魂の到達点でもある。その時は、永遠の1/2にいる神とて、いずれ次の言論(情報)を教えてくれることも期待できようか。
「あなたが、この世に存在するのは、あなたを誰かが必要としているからですよ」
さかさまであっても、そこに花がある。このさかさまは、元々(文献4)を参照)から与えられた”印し”である。それは、時にさかさまであっても存在してもよい
図 花4)
ことを告げている。ただし、花はさかさまであっても華として変わりない。しかしながら、人の鼻はさかさまになる。でも、そこに存在する霊魂は、華に他ならない。そうして、永遠の1/2を知るための、さかさまなエクスタシーの花に、こころ奪われるよう、あなたの下で、今日も咲いている。
1) https://ja.wikipedia.org/wiki/日本国憲法第21条 (閲覧2019.4.22)
2) https://www.eltes-orm.com/column/id300/ (閲覧2019.4.22)
3) 菊地章太: エクスタシーの神学. 筑摩書房. 2019.
4) https://www.pexels.com/ja-jp/photo/2144413/ (閲覧2019.4.22)