題名:ドーナツ禅師から学ぶ、ヒトの生きる意味
報告者:ダレナン
本報告書は、基本的にNo.1015の続きであることを、ここで前もってことわりたい。
ヒトのヒトとが織りなすアイデンティファイ行為には、文化的にも特別な意味愛がある可能性については、報告書のNo.1015で示した通りである。さらに、遡って、報告書のNo.1009では、人が人生に問うべき生きる意味とは、“トーラスΣ1(ドーナツ)によってなされる生の循環において不動点が存在しない流動性”であることを提示した。ここでは、さらに、これらを統合すべく、禅の教えの導きからでもって、ドーナツ禅師からヒトの生きる意味を諭したい。
ドーナツ禅師は、架空上の禅の師となるが、ゆえに、ドーナツ禅師(仮)となる。しかしながら、循環する世界は、宇宙も含めて、何かしらの形状があるに違いない。それはドーナツ型かもしれないし、あるいは、球型かもしれない、あるいは、もっと複雑な穴を持った型かもしれない。未だにそれは不明ではあるが、人生そのもの、ヒトの命そのものは、遺伝子を運ぶ永遠のトロッコ列車に乗るが如く (報告書のNo.428も参照) 、繰り返し、循環している。その回答の一つが、不動点が存在しない流動性でもあり、トーラスΣ1でもある。そこで、ドーナツを世界に据え、禅的にドーナツから世界を見わたすと、ドーナツ禅師が、そこに鎮座する。ドーナツ禅師は、自らの穴の内部については、何も答えない。しかしながら、ドーナツ禅師はこう伝える。
“営々と流れる生の循環において、
その流れ(流動性)を決めている最重要要素は、穴である。”
と。例えば、図のように右手にドーナツ、左手に食べているドーナツを示すと、右手は種数1であるが、左手は種数0の、トポロジー的には球面Σ0となる。すなわち、球面Σ0では流動性が断たれ、不動点を生じる。それは、もはやドーナツとは呼べない。食べたヒトにとっては栄養補給となるも、ドーナツ側は生の循環が断たれた存在へと変貌する。
日本曹洞宗の開祖であり、禅を日本に根づかせた禅僧である道元禅師の「正法眼蔵」を紐解くと、師曰く、全時空の全存在を結びつける「仏の御いのち」は、
図 ドーナツを食べる1)
「今、ここ、この私」の「はたらき」となって、成り立たせ、かつ、一瞬一瞬を充実したものとして、その存在とつながりつつも、何にも執着することなく生きることができれば、この現実においてすでに悟りを得、仏(真理に目覚めた人)と成れる、と説く2)。そして、何も執着しない、とは、永遠不滅の固体的実体のない存在であり、それが「空」となる2)。ドーナツ禅師からこれを問いなおせば、もちろん、ドーナツの穴は「空」となる。そのため、トーラスΣ1の生の循環として不動性を担保するには穴の存在が欠かせず、自己と世界の真相である「空」を自覚できることが2)、生きる意味としてのさとりとなる。ただし、ドーナツ禅師はうまい。図のように美味しそうにアイデンティファイしてしまうのは、栄養補給だけではなく、そのうまさゆえである。
1) http://abc—5.tumblr.com/post/128692950086 (閲覧2018.12.25)
2) 頼住光子: 正法眼蔵入門. 角川学芸出版. 2015.